ダムに沈む谷底の坑道で鉄の輪をくぐった夜、俺は自分の名前を忘れていた
霧の濃い晩、廃坑の奥に据えられた巨大な鉄の輪をくぐった先で、名前も顔も国籍も失った。十九年越しの異世界体験談。
あの輪の向こう側で、俺は誰でもなくなった
今から十九年ほど前のことになる。
俺がまだ大学生だった頃、地元の山あいにダム建設が決まって、谷ごと沈むことになった集落があった。子供の頃に遊んだ場所が水底に消えるということで、沈む前に一度だけ見に行こうという話になった。それがすべての始まりだった。
正直、こういう場所に書き込むこと自体が初めてで、文章のまとめ方もよくわかっていない。ただ十九年間ずっと胸の中にあったことを、そろそろ外に出しておかないといけない気がして、キーボードを叩いている。
読みにくいかもしれないけど、最後まで付き合ってもらえたら嬉しいです。
先に登場人物を整理しておく。俺をA、高校からの友人で地元の土建屋の息子をT、Tの従兄弟で当時すでに社会人だった男をHとする。あとTの彼女のYが途中まで一緒にいたけど、核心の部分には関わっていない。
あの夜のことを思い出すとき、最初に蘇るのは音でも映像でもなく、鉄錆の匂いだ。湿った土の匂いに混じった、舌の奥がきゅっとなるような金属の臭気。あれが何だったのか。十九年経った今も、答えは出ていない。
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Tからの電話と、沈む谷のこと
あの年の秋、十月の終わり頃だったと思う。Tから電話がかかってきた。
T「おい、来週の土曜空いてるか。谷、見に行かんか」
俺の地元は中国地方の山間部で、県境に近い場所に小さな谷があった。谷の両側を急な山が挟んでいて、底には細い川が流れている。昔はそこに十数軒の集落があったらしいが、俺たちが子供の頃にはもう誰も住んでいなかった。廃屋が何軒か残っていて、夏になると虫取りに行った記憶がある。
その谷にダムを造ることが正式に決まったのが、俺たちが大学に入った年だった。翌年には本格的な工事が始まるということで、谷への立ち入りも制限されるという噂が流れていた。
Tの実家は土建業をやっていたから、そのあたりの情報は早かった。
T「H兄ちゃんが車出してくれるって。あそこ、ガキの頃よく行ったろ。坑道の入口とか覚えてるか」
坑道。その言葉を聞いた瞬間、記憶の奥から引っ張り出されるものがあった。
谷の奥、集落跡をさらに上流に進んだところに、山肌に穴が開いている場所があった。戦時中に何かの鉱石を掘っていた跡だと、じいちゃんから聞いたことがある。子供の頃は怖くて入口から覗くだけだったが、中はかなり深いという話だった。
T「H兄ちゃんがな、昔あの坑道の奥に変なもんがあるって言ってたの覚えてるか」
覚えていなかった。でもTの声には、単なる懐かしさとは違う熱がこもっていた。
T「鉄の輪。でっかい鉄の輪が、坑道の奥に立ってるんだと」
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霧の晩、谷底に降りた夜のこと
その週の土曜日、Hの軽トラに三人で乗り込んだ。Tの彼女のYも来る予定だったが、当日になって体調を崩して不参加になった。今にして思えば、あれは正しい判断だった。
谷までは舗装路を外れてから林道を三十分ほど走る。十月末の山は日が落ちるのが早くて、午後四時にはもう薄暗かった。Hは二十代後半で、寡黙な男だった。運転しながらほとんど喋らない。たまに煙草に火をつけるとき、ライターの火が横顔を照らした。
谷に着いたのは五時前。車を降りた瞬間、空気の質が変わったのを覚えている。湿度が高くて、吐く息が白い。そして霧。谷底から霧が湧いていて、廃屋の屋根が霧の中に沈んだり浮かんだりしていた。
H「今日はよう出とるな」
Hが初めてまともに喋った。霧のことだ。
H「ここはな、昔から霧が出る晩は山に入るなって言われとった。じいさんが言ってた」
じゃあなんで来たんだよ、とTが笑った。Hは笑わなかった。
T「で、坑道はどっちだっけ」
Hは懐中電灯を二本取り出して、一本を俺に渡した。Tには渡さなかった。Tが文句を言うと、Hは「お前は俺の後ろを歩け」とだけ言った。
集落跡を抜けて川沿いに上流へ歩く。足元は砂利と枯れ葉で、踏むたびにじゃりじゃりと音がする。その音以外、何も聞こえない。鳥の声も、虫の声もない。十月末だから虫がいないのは当然かもしれないが、鳥も鳴かないのは妙だった。
十五分ほど歩いたところで、Hが足を止めた。
懐中電灯の光が、山肌の横穴を照らしていた。坑道の入口だ。高さは大人が少しかがめば入れるくらい。横幅は二メートルもない。入口の周囲には木の支柱が残っていたが、半分以上が朽ちて崩れていた。
中から、冷たい風が吹き出していた。そして匂い。湿った岩と土の匂いに混じって、あの鉄錆の匂いがした。
H「行くぞ」
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坑道の奥に立っていたもの
坑道の中は想像以上に広かった。入口こそ狭いが、十メートルも進むと天井が高くなり、大人が立って歩ける程度の空間になる。壁面は岩肌がむき出しで、ところどころに鉱脈を掘った跡のような筋が走っていた。
足元は水が染み出していて、靴がすぐに濡れた。懐中電灯の光が届く範囲は五メートルほど。その先は完全な暗闇だった。
Tが後ろから俺の肩を掴んだ。
T「なあ、なんか聞こえんか」
耳を澄ませた。水滴が落ちる音。それだけ。いや、それだけじゃない。もっと奥の方から、低い振動のようなものが伝わってくる。音というより、空気の震え。胸の奥が共鳴するような、不快な周波数だった。
Hは黙って歩き続けた。坑道は一本道で、分岐はなかった。五十メートルほど進んだところで、Hが急に立ち止まった。
H「あった」
懐中電灯の光を正面に向ける。
そこにあったのは、巨大な鉄の輪だった。
直径は二メートル以上。赤茶色に錆びた鉄の環が、坑道の通路を塞ぐように縦に据えられていた。床から天井近くまで届いている。輪の断面は太い。人間の腕くらいの太さがあった。
輪の中心は空洞で、その向こうにも坑道が続いているのが見えた。ただ、輪の手前と向こう側で空気の温度が違った。手前は冷たいが、向こう側はさらに冷たい。そして匂いが変わる。鉄錆に加えて、何か甘いような、腐敗とは違う有機的な匂いが混じっていた。
H「じいさんが言ってた。ここの輪をくぐると、戻れんくなる奴がおると」
T「はあ? くぐるって、普通に歩いて通るだけだろ」
H「霧の晩にくぐったらいかんと」
沈黙。
外は霧だった。
Tが笑った。乾いた笑いだった。
T「肝だめしじゃん。いいじゃん、やろうぜ」
Hは何も言わなかった。止めもしなかった。今にして思えば、Hはあの輪を俺たちに見せるために来たのだ。そして、くぐるかどうかを俺たちに委ねた。
俺は、くぐった。
📺 関連映像: 廃坑 鉄の輪 異世界 体験談 — YouTube で検索
輪の向こう側にあった「何でもない場所」
輪をくぐる瞬間のことは、よく覚えている。鉄の環をまたぐとき、静電気のような感覚が全身を走った。痛みはない。でも、皮膚の表面を何かが撫でていくような、ざわつく感触があった。
くぐった先は、普通の坑道の続きだった。何も変わらない。懐中電灯で照らすと、同じような岩肌、同じような水たまり。拍子抜けした。
Tが後ろからくぐってきた。
T「なんもないじゃん」
振り返ると、輪の向こう側にHが立っていた。Hはくぐらなかった。懐中電灯の光がHの顔を照らしていたが、表情が読めなかった。
T「H兄ちゃん、来んの?」
H「…先に行ってみ。すぐ行き止まりになるはずだから」
俺とTは奥に進んだ。二十メートルほど歩くと、確かに行き止まりだった。岩壁で塞がれている。何もない。何の変哲もない行き止まり。
戻ろうとした。
輪が見えた。Hが向こう側に立っているのも見えた。
くぐった。
その瞬間。
俺は自分の名前を思い出せなくなっていた。
いや、正確に言うと、名前という概念がわからなくなった。名前って何だ。自分って何だ。目の前に立っているこの男は誰だ。横にいるこいつは誰だ。ここはどこだ。俺はどこの国の人間だ。日本語を喋っているのか。そもそもこれは何語だ。
パニックにはならなかった。感情そのものが希薄になっていた。ただ、空白があった。自分という存在の輪郭が溶けて、何もない空間に浮いているような感覚。時間の長さもわからない。三十秒だったかもしれないし、五分だったかもしれない。
最初に戻ってきたのは、鉄錆の匂いだった。匂いを認識した瞬間、五感が一斉に戻ってきた。TがHの腕を掴んで何かを叫んでいた。Hが俺の頬を叩いていた。
H「おい。名前。名前言え」
俺は答えた。自分の名前を。でもその名前が本当に自分のものなのか、しばらく確信が持てなかった。
Tも同じ状態だったらしい。後で聞いたら、輪をくぐり戻した瞬間に「自分が何者かわからなくなった」と言っていた。ただTの方が回復は早かった。俺は坑道を出てからも、しばらく自分の手を見つめていた。この手は誰の手だ、と。
Hは何も言わなかった。ただ黙って俺たちを車まで連れ帰った。
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十九年後の今も残っている違和感のこと
谷は翌年、予定通りダムに沈んだ。坑道も、鉄の輪も、今は水の底にある。
あの夜のことを、俺はしばらく誰にも話さなかった。Tとも話さなかった。Tの方から触れてくることもなかった。Yには「何もなかった、つまんなかった」と報告したらしい。Hとはあれ以来、一度も会っていない。Tに聞いても「H兄ちゃん、県外に行った」としか言わない。
ただ、あれ以来、俺には一つだけ変わったことがある。
年に二、三回、朝起きた瞬間に自分の名前がわからなくなる。数秒で戻る。でもあの坑道の中と同じ感覚が、一瞬だけ蘇る。自分の輪郭が溶ける、あの空白。
それと、鉄錆の匂い。何もないところで突然、あの匂いがすることがある。古い建物に入ったときとか、雨の日の夕方とか。あの坑道の匂いと同じだ。そのたびに、輪の向こう側で見た何もない空間のことを思い出す。
あの鉄の輪が何だったのか。戦時中の鉱山施設の一部なのか、それとももっと古いものなのか。くぐったときに起きたあの現象は、酸欠だったのか、心理的なものだったのか。
調べようにも、もう水の底だ。
一つだけ気になっていることがある。あの日、俺とTが輪をくぐって戻ってきたとき、Hは俺たちの顔を見て、小さく頷いた。あの頷きは何だったのか。確認だったのか。予想通りだったということなのか。
Hは最初から知っていたんじゃないか。くぐったらどうなるか。
そしてH自身は、くぐらなかった。
十九年経って、やっとこうして文字にすることができた。あれが何だったのか、似たような体験をした人がいたら教えてほしい。山の坑道に、鉄の輪が立っているのを見たことがある人。くぐって、自分を見失った人。
長文失礼しました。読んでくれてありがとう。
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何が分かっていて、何が分かっていないか
この話を書いたのは、答えが欲しいからだ。でも十九年間、答えは見つかっていない。
分かっていること。中国地方の山間部に、ダム建設で水没した谷がある。その谷の奥に戦時中のものとされる坑道があった。坑道の奥に、大きな鉄の輪が据えられていた。少なくとも俺とTの二人が、その輪をくぐった後に一時的な記憶喪失のような状態を経験した。
分かっていないこと。鉄の輪が何の目的で設置されたのか。なぜ坑道の奥にあったのか。くぐったときに起きた現象の原因。Hが何を知っていたのか。そしてHが今どこにいるのか。
民俗学や鉱山史に詳しい人なら、何かわかるかもしれない。日本各地の鉱山跡には、用途不明の構造物が残されていることがあるという話は聞いたことがある。鳥居のような形をした坑道の支柱が信仰の対象になっていた例もあるらしい。鉄の輪がそれに類するものだったのかどうか。
酸欠や有毒ガスの可能性も考えた。廃坑には二酸化炭素や硫化水素が溜まることがある。低酸素状態では意識の混濁、記憶障害、幻覚が起こりうる。ただ、あの症状は「記憶を失った」というよりも「自分という概念が消えた」という感覚に近かった。酸欠でそういうことが起こるのかどうか、俺にはわからない。
もう一つ。TもHも、あの夜のことを語りたがらない。十九年間ずっとだ。俺だけがこうして文字にしている。それが正しいことなのかどうかも、わからない。
ただ、水の底に沈んだあの輪のことを、誰かの記憶に残しておきたかった。それだけは確かだ。
出典: 霧の谷でくぐった鉄の輪
もっと深く知りたい人向けの本
この話を読んで山の怪異や廃坑の不思議に興味を持った人には、以下の本をおすすめしたい。
『山怪 山人が語る不思議な話』(田中康弘、山と溪谷社)。日本各地の山で暮らす人々から集めた不思議な体験談集。山の中で起きる説明のつかない出来事が、淡々とした語り口で綴られている。あの谷で俺が感じた「空気の質が変わる」感覚に近い話がいくつもある。
『遠野物語』(柳田國男、新潮文庫)。日本の民俗学の原点。山間部の集落に伝わる怪異譚の記録で、百年以上前の話なのに、読むと背筋が冷える。谷や坑道にまつわる言い伝えの原型がここにある。
『禁足地巡礼』(吉田悠軌、扶桑社新書)。日本各地の「入ってはいけない場所」を実際に訪ね歩いたルポルタージュ。ダムに沈んだ土地、封印された山道、立入禁止の森。あの鉄の輪がなぜあそこにあったのか、この本を読むとヒントが見えてくるかもしれない。
『現代怪談 地獄めぐり』(松村進吉、竹書房文庫)。現代の怪談実話を集めたシリーズで、投稿型の体験談に近い温度感で読める。坑道や廃墟での体験談も収録されている。
本記事は世界各地の伝承・都市伝説・公開報道を編集したものです。個別の事象が超常現象であると主張するものではなく、文化史的な記録としてお読みください。心霊スポットへの無断侵入は法的トラブルの原因になります。立入禁止表示には必ず従ってください。
📚 この記事で紹介した書籍
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山怪 山人が語る不思議な話
田中康弘 / 山と溪谷社
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遠野物語
柳田國男 / 新潮文庫
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禁足地巡礼
吉田悠軌 / 扶桑社新書
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現代怪談 地獄めぐり
松村進吉 / 竹書房文庫
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