世界怪奇録
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2026-08-28その他

奥会津の山中に「雪が積もらない湯屋」があった話──傷を引き取る湯と、二十六年後の草履

平成十二年の冬、叔父に連れられた奥会津の廃湯屋。雪だけが積もらないその場所で、黒電話が繰り返した言葉の意味とは。

奥会津の山中に「雪が積もらない湯屋」があった話──傷を引き取る湯と、二十六年後の草履
Photo by Vien Dinh on Unsplash

あの冬の湯屋のことを、まだ誰にも話せていない

今から30年ほど昔になるでしょうか。

いや、ちがう。正確に言えば二十六年前、平成十二年の冬のことです。

私はそのとき十四歳で、事情があって母方の叔父の家に預けられていました。場所は奥会津、と言ってもかなり山の奥のほうで、バスが一日に二本しか来ないような在です。冬になれば膝まで雪が積もるのが当たり前で、十二月の半ばにはもう集落全体が白に覆われていました。

長文になります。文才もないし、あの頃のことを思い出しながら書いているので、話の前後がおかしくなるかもしれません。許してください。

書こうと思ったきっかけは、先月のことです。今の自宅の玄関に、覚えのない草履が一足、揃えて置いてあったのを見つけました。それで二十六年前のあの冬が一気に蘇ってきて、どうしても誰かに聞いてほしくなった。自分ひとりで抱えるのが、もう限界だったんだと思います。

登場人物を整理します。叔父をA、叔父の息子、つまり従兄弟をBとします。Bは私より二つ年上の十六歳で、口数の少ない子でした。Aは山仕事をしている寡黙な人で、背が高くて手がやたら大きかったのを覚えています。

その年、Aが私を「灰坂の湯屋」に連れて行った日のことから話します。

snowy mountain village japan winter dark mist Photo by Philip Demir on Unsplash

雪の中に、雪のない場所があった

十二月の下旬だったと思います。朝から雪が降っていて、Aは普段なら山に入る日でしたが、その日は昼前に戻ってきました。右足を少し引きずっていた。木を切っているときに足首をやったらしく、くるぶしのあたりが紫色に腫れ上がっていました。

Aは居間に座ると、しばらく黙って足を見つめていました。それからぽつりと言いました。

A「……灰坂、行くか」

Bが台所から顔を出して、小さくうなずいた。私は何のことかわからなくて、Bに聞きました。

私「灰坂って何」 B「湯屋の跡。山ん中にある。……行ってみればわかる」

Bはそれ以上何も説明してくれませんでした。

午後二時頃、三人で家を出ました。雪はやんでいたけれど、空は鉛色でずっと低く、山の稜線が見えないくらいでした。Aは足を引きずりながらも先頭を歩き、私とBがその後を追う格好です。集落の外れから林道に入り、杉林の中を三十分ほど登ったところで、Aが足を止めました。

「ここから先、ちっと変だと思うが、驚くなよ」

Aがそう言った直後、私はそれを見ました。

杉林の向こうに、ぽっかりと雪のない空間がありました。周囲はどこも三十センチ以上雪が積もっているのに、そこだけ地面が露出している。落ち葉と黒い土がむき出しで、湿った温い空気が漂っていました。十二月の山の中なのに、その一帯だけ匂いが違う。硫黄ではなくて、どちらかというと古い鉄のような、錆びた刃物に鼻を近づけたときのような匂いです。

その中心に、湯屋がありました。

木造の平屋で、屋根は半分崩れていて、壁板も何枚かはがれている。けれど全体として、まだ建物の形を保っていた。入り口には暖簾の棒だけが残っていて、布はとうに朽ちたのか、なくなっていました。

Aは無言でその中に入っていきました。

abandoned wooden bathhouse ruins forest Photo by T on Unsplash

「傷を引き取る湯」という言い伝え

中は思ったより広かった。土間があって、その奥に脱衣場のような板の間があり、さらに奥に浴場がありました。浴場には石で組まれた湯船が二つ並んでいて、片方にはまだ水が溜まっていました。水、というより、やや緑がかった透明な液体です。触れてみるとぬるい。外気温が零下近いのに、その水は体温より少し低いくらいの温度を保っていました。

Aは黙ってその湯船の縁に腰を下ろし、腫れた足をそっと湯に浸しました。

Bが私のそばに来て、小声で教えてくれました。

B「この湯はな、傷を引き取るんだと。人間の傷を、湯が引き取ってくれる」 私「引き取るって、治してくれるってこと?」 B「……ちがう。治すんじゃなくて、引き取る。傷がこっちに移る。その代わり……」

Bはそこで口をつぐみました。私が「代わりに何」と聞いても、首を横に振るだけだった。

Aは十五分ほど足を湯に浸して、上がりました。上がったときにはもう足を引きずっていなくて、腫れも明らかに引いていた。私はそのとき、ただ単にこの湯に何か薬効成分があるのだろうと思いました。温泉なんだろうと。

帰り道、Aは一度だけ振り返って湯屋を見ました。そのときの顔が、なんというか、申し訳なさそうだった。感謝ではなくて、後ろめたさのような表情。あれは十四歳の私にもはっきりわかりました。

家に戻ってから、Aは仏壇の前に長いこと座っていました。Bは私に「あの湯屋のことは、誰にも言うなよ」とだけ言った。

その晩、Aが急に高熱を出しました。

dark stone bath ancient abandoned Photo by isawnyu (BY) via Openverse

あの夜、黒電話が鳴った

Aの熱は三十九度を超えていて、叔母は慌てて布団を敷き直していました。けれどA本人は「大丈夫だ、明日には下がる」と言って、薬も飲まずに横になった。

問題はその次です。

叔母が夜勤のため家を出て、Bと私だけで留守番をすることになりました。Aは奥の部屋で寝ている。時刻は夜の十時頃だったと思います。居間でBとテレビを見ていたら、廊下にある黒電話が鳴りました。

当時はまだ家に黒電話が残っている家がありましたし、この集落では携帯の電波も入らなかったから、固定電話が唯一の連絡手段でした。

Bが出ました。

私は居間からBの背中を見ていたのですが、Bが受話器を耳に当てた瞬間、体が硬直したのがわかった。

B「……誰ですか」

しばらく黙って聞いていたBが、ゆっくりこちらを振り向きました。顔が真っ白でした。

B「……おまえ、ちょっと来い」

受話器を差し出されて、私は耳に当てました。

声が聞こえました。男とも女ともつかない、低くて平たい声。抑揚がまったくない。同じことだけを繰り返していました。

「治ったと言うてくれ」

それだけです。他に何も言わない。数秒の間を置いて、また同じ言葉。

「治ったと言うてくれ」

私は怖くなって受話器を置きました。置いた瞬間にまた鳴った。Bが受話器を取り上げて、耳に当てずにそのまま横に置きました。受話器からは、あの声がまだ続いていた。かすかに、でもはっきりと聞こえる。

「治ったと言うてくれ」 「治ったと言うてくれ」 「治ったと言うてくれ」

Bは私の肩をつかんで、小声で言いました。

B「絶対に、治ったとか言うなよ。何があっても言うな」

私たちはその夜、受話器を外したまま、居間で背中合わせに座って朝を待ちました。Aの部屋からは寝息が聞こえていた。けれど廊下の受話器からは、断続的にあの声が漏れていました。途中から声のトーンが少しずつ変わっていったような気がします。最初は平坦だったのが、だんだん懇願するような、泣くような調子になっていった。

それでもBは何も言わなかった。私も言わなかった。

朝の五時頃、ふと気づくと声が止んでいました。受話器からはツーツーという発信音だけが鳴っていた。

📺 関連映像: 奥会津 怪談 不思議な体験 湯治場 — YouTube で検索

翌朝、Aの足は完全に治っていた

Aは朝には熱も下がり、足もすっかり元通りでした。何事もなかったように朝飯を食べて、山に出かけていきました。

私はBに昨夜の電話のことを聞きました。

私「あれ、何だったの」 B「……わからん。けど、昔から言われてる。あの湯屋を使うと、夜に電話が来ることがあるって。電話がない時代は、戸を叩く音だったらしい」 私「治ったと言ったらどうなるの」 B「……知らん。けど、じいさんが言ってた。昔、言うてしまった人がいて。その人は次の日から歩けなくなった。湯屋に行く前より、もっとひどいことになったって」

つまり、とBは言いました。

B「あの湯は、傷を預かってくれるだけなんだと思う。治してるわけじゃない。だから返してくれと言ってくる。治ったと言えば、返す。返すときは利子がつく」

利子。その言葉がずっと頭に残りました。

Bはそれ以上何も教えてくれなかったし、Aにも聞けませんでした。その年の冬が終わり、私は自分の家に戻り、普通の生活に戻っていきました。

あれから二十六年。Aは数年前に亡くなりました。Bとも疎遠になっています。灰坂の湯屋がまだあるのかどうかも知りません。あの集落自体、もう人が住んでいるかどうか怪しい。

ただ、先月のことです。

old japanese entrance genkan empty shoes Photo by Thomas Griesbeck on Unsplash

玄関に揃えられた、覚えのない草履

先月の終わり、仕事から帰宅したら、玄関に草履が一足、きれいに揃えて置いてありました。

藁でできた古い草履です。今どき誰も履かないような。家族に聞いても「知らない」と言う。近所の人の悪戯かとも思ったけれど、うちはマンションの七階で、オートロックもある。そもそもこんな草履をわざわざ持ってくる意味がわからない。

その草履を見た瞬間、二十六年前のあの湯屋のことが蘇りました。

あのとき、湯屋の入り口にも草履があったことを思い出したんです。入り口の土間に、古い草履が何足か並んでいた。Aが湯に入る前に、その草履の一つを手に取って、ひっくり返してからまた戻した。私はそのときその動作の意味がわからなかったけれど、今になって思えば、何かの作法だったのかもしれない。

草履はその日のうちに処分しました。燃えるごみに出すのが怖くて、近くの神社のお焚き上げに持って行きました。神主さんに事情を話したら、少し考えてから「お預かりしましょう」と言ってくれた。それだけで何か知っているような顔はしませんでした。

あれから一か月。今のところ電話は鳴っていません。ただ、夜になると、マンションの廊下を誰かが歩くような音が聞こえることがある。足音というより、何かを引きずるような音。気のせいかもしれません。気のせいだと思いたい。

あの湯屋のことを知っている人、あるいは似たような話を聞いたことがある人がいたら、教えてほしいんです。「傷を引き取る湯」というのが何なのか。電話の声は何だったのか。そして、なぜ二十六年経った今、草履が届いたのか。

Bに連絡を取ろうとしましたが、電話番号が変わっていてつながりません。実家の方にも連絡してみましたが、あの集落にはもう誰もいないそうです。

長文失礼しました。読んでくれた方、ありがとうございます。

misty abandoned village path japan fog Photo by Lute on Unsplash

何が分かっていて、何が分かっていないか

この話を書いてから、自分なりに調べてみたことを少しだけ追記します。

奥会津の一帯には、かつて湯治場が数多くあったことは知られています。記録に残らないような小さな湯場も含めれば相当な数があったとされ、中には特殊な効能を謳うものもあったらしい。「傷を引き取る」という言い回しに近い伝承は、会津地方だけでなく、東北各地に断片的に残っているようです。

たとえば、山形のある温泉では「湯が病を喰う」という言い方があり、入浴後に供え物をしないと病が戻るという信仰があったとされます。また柳田国男の民俗学的な調査の中にも、湯治と引き換えに何かを差し出す、という交換の思想がいくつか記録されている。

ただし「灰坂」という地名は、私が調べた限りでは特定できませんでした。奥会津のどのあたりかもはっきりしない。叔父のAが使っていた地名が、正式な地名なのか、集落の中だけで通用する通称なのかもわかりません。

電話の声については、正直なところ何も手がかりがないです。「治ったと言うてくれ」という言い回しの方言的な特徴からすると、会津弁というよりもう少し古い言い回しのようにも聞こえました。Bが言っていた「電話がない時代は戸を叩く音だった」という話が本当なら、あの声の主は電話という道具に依存しているわけではない。何か別のものが、その時代ごとの伝達手段を使って接触してくるのかもしれません。

草履のことは、今もわかりません。あれがAの死と関係があるのか、あるいは二十六年という歳月に意味があるのか。それとも、まったく別のものなのか。

わかっているのは一つだけ。あの湯屋が「治す」場所ではなく「預かる」場所だったということ。そして、預けたものには期限がある。その期限が来たとき、何が起こるのか。

私はまだ、それを知りません。

出典: 雪が積もらない灰坂の湯屋 - the-mystery.org

もっと深く知りたい人向け

この話に出てくる「傷を引き取る」「湯が病を喰う」といった民俗的な信仰に興味を持った方には、以下の書籍をおすすめします。

柳田国男『遠野物語』(岩波文庫)。東北の山間部に伝わる怪異譚の古典中の古典。湯治や山の信仰に関する断片的な記述も含まれていて、この手の話を読むときの下地になります。

佐藤公太郎『会津の怪談』(歴史春秋社)。会津地方に伝わる怪談や不思議な話を集めた一冊。地元の人から聞き取った話が中心で、この記事で書いたような、表に出てこない小さな湯場の話に近い温度感のものが収録されています。

松村進吉『現代怪談 地獄めぐり』(竹書房文庫)。現代の投稿型怪談の中でも、土地や場所にまつわる体験談を集めたシリーズ。「預かる」「引き取る」という概念が出てくる話がいくつかあり、読み比べると共通点が見えてきます。


本記事は世界各地の伝承・都市伝説・公開報道を編集したものです。個別の事象が超常現象であると主張するものではなく、文化史的な記録としてお読みください。心霊スポットへの無断侵入は法的トラブルの原因になります。立入禁止表示には必ず従ってください。

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