京都の古書店で三十年間眠っていた和綴じ本に「今日の日付」が書かれていた話
白髪の老人が置いていった一冊の和綴じ本。三十年後、表紙裏に記されていたのは「その日の日付」と店主の名前だった。
あの日、老人が置いていったもの
Tさん、と呼ばせてもらいます。京都で古書店を営んでいる方です。
TさんはMさんの知り合いで、MさんはAの大学時代の友人で、つまり俺はかなり遠い位置にいる人間なんですが、この話を又聞きして、どうしても頭から離れなくなった。Mさんに頼んでTさんに確認を取ってもらい、「名前と場所を伏せるならいいよ」と許可をもらったので書きます。
長文です。文才もないので読みにくいかもしれません、許してください。
この話の舞台は、京都のとある古書店。大通りから一本入った路地にある、間口の狭い店だそうです。Tさんはそこを親の代から引き継いで、もう四十年以上やっている。棚には和本や郷土史の類が多くて、観光客はほとんど来ない。常連と、たまに研究者が訪ねてくる程度の、静かな店。
Tさんがこの話をMさんにしたのは、ごく最近のことだったらしい。 何があったのか、順を追って書いていきます。
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三十二年前の初冬、白髪の老人
Tさんが最初にその和綴じ本を手にしたのは、三十二年前の初冬だった。
夕方、閉店間際の時間帯。客はもう誰もいなくて、Tさんが帳簿をつけていたら、引き戸ががらりと開いた。入ってきたのは、白髪の老人だった。背筋がまっすぐで、品のある身なりだったという。コートの下に和服を着ていたのを覚えているそうだ。
老人は店内をゆっくりと見回してから、カウンターの前に立った。
「これを、預かっていただけませんか」
そう言って、風呂敷から一冊の本を取り出した。
和綴じの本だった。表紙は藍色の渋紙で、題箋は剥がれかけていて、かろうじて読めるのは「記」の一文字だけ。サイズは四六判よりやや小さいくらい。ページ数はそれほど多くなく、厚さは一センチもなかったらしい。
Tさんは古書店の人間だから、買い取りかと思って中身を確認しようとした。すると老人は穏やかに、でもはっきりとこう言ったそうだ。
「中は見ないでください。いずれ、この本を必要とする方が来られます。その方にお渡しいただきたい」
Tさんは困惑した。古書店に本を預けて、特定の誰かが取りに来るのを待ってくれ、というのはさすがに変な話だ。名前も聞いていない。いつ来るかも分からない。そもそも「必要とする方」って誰なんだ、と。
「失礼ですが、どなたがいらっしゃるんでしょう」
老人は少し微笑んで、こう答えた。
「分かります。来られた時に、分かります」
それだけ言うと、老人は風呂敷をたたんで、帰っていった。名刺も、名前も、連絡先も残さなかった。
Tさんは引き止めようとしたが、なぜかその場から動けなかった。金縛りとかではなく、なんとなく追いかけてはいけない気がした。そういう空気だったと言っていたそうだ。店の中に線香のような、でも線香とも違う甘い匂いがうっすら残っていた。
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三十年間、棚の奥で眠っていた本
普通なら処分するか、少なくとも中身を確認するだろう。でもTさんはしなかった。
理由を聞いたMさんによると、Tさん自身もうまく説明できないらしい。「見てはいけない気がした」「あの老人との約束を破るのが怖かった」。古書店を長くやっている人間として、本に対する直感のようなものがあったのかもしれない、とTさんは言っていたそうだ。
和綴じ本は、店の奥の棚。売り物ではない資料や私物を置いている場所に仕舞われた。
それから、三十年が過ぎた。
その間にTさんは結婚し、子供が生まれ、親を看取り、店を改装し、また元に戻した。時代は昭和から平成、令和へと移った。古書店の経営は厳しくなり、ネット販売を始め、それでもなんとか続けてきた。
和綴じ本のことは、忘れていたわけではない。年に一度か二度、棚の整理をする時に目に入った。そのたびに「ああ、まだあるな」と思い、また奥に戻した。誰も取りに来なかった。当然だ。誰が来るかも分からないのだから。
Mさんが「捨てようとは思わなかったんですか」と聞いたら、Tさんはこう答えた。
「思わなかった。不思議やけど、一度も思わんかった。あの本はそこにあるもんや、という感じで。家の柱みたいなもんかな」
三十年間、ずっとそこにあった。 それが動いたのは、ごく最近のことだった。
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三十年後に現れた客
ある日の午後。平日の昼下がりで、店には誰もいなかった。
引き戸が開いて、女性が一人入ってきた。四十代くらい。地味な服装で、手にはトートバッグを下げていた。Tさんは「いらっしゃい」と声をかけた。女性は軽く会釈して、棚を見始めた。
しばらくして、女性がカウンターに近づいてきた。
「あの、変なことを聞いてもいいですか」
Tさんが「どうぞ」と言うと、女性は少しためらってからこう切り出した。
「祖父が亡くなりまして。遺品を整理していたら、メモが出てきたんです。このお店の名前と住所が書いてあって、その下に『預けてある』と」
Tさんの背中に、冷たいものが走った。
「預けてある、ですか」
「はい。それだけなんです。何を預けたのかも書いてなくて。祖父は晩年、少し記憶が曖昧になっていたので、もしかしたら何かの勘違いかもしれないんですが」
Tさんは、三十年前の老人のことを思い出した。白髪で、背筋がまっすぐで、コートの下に和服を着ていた人。名前を聞いていなかった。顔もぼんやりとしか覚えていない。三十年前だから当然だ。
「お祖父様は、白髪の方でしたか」
女性は頷いた。
「背の高い方で。和服が好きでした」
Tさんは棚の奥に手を伸ばした。三十年間、同じ場所にあった和綴じ本。埃をかぶっていたが、傷んではいなかった。藍色の表紙も、剥がれかけた題箋も、あの日のままだった。
「これではないですか」
女性の目が大きく見開かれた。
「これ。祖父の書斎にあったのと同じ装丁です。祖父は和綴じの本を何冊か自分で作っていて」
Tさんは女性に本を渡そうとした。その時、ふと表紙をめくった。三十年間、一度も開かなかった表紙の裏。
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今日の日付と、自分の名前
表紙の裏に、筆で文字が書かれていた。
日付だった。
Tさんは最初、意味が分からなかったそうだ。年月日が縦書きで記されている。古い本だから、江戸時代とか明治の日付だろうと、なんとなく思った。
でも違った。
書かれていたのは、その日の日付だった。Tさんがその本を開いた、まさにその日の、年月日。
そしてその下に、Tさん自身の名前が書かれていた。
Tさんの本名。戸籍上の名前。古書店の屋号ではなく、Tさん個人の名前。三十年前、老人には一度も名乗っていない名前だった。
Tさんの手が震えた。
「どうされました?」
女性が心配そうに声をかけた。Tさんは答えられなかった。本を閉じて、もう一度開いた。日付と名前は、そこにあった。墨の色は褪せていなかった。昨日書いたばかりのように、黒々としていた。
それ以上、ページをめくることはできなかったという。
Tさんは本を女性に渡した。女性は丁寧にトートバッグに入れて、何度もお礼を言って帰っていった。
店に一人残されたTさんは、しばらくカウンターの前に座ったまま動けなかった。
あの老人は、三十年前のあの時点で、今日の日付を知っていたのか。自分の名前を知っていたのか。孫娘がこの店に来ることを知っていたのか。全部知った上で、あの本を預けていったのか。
あるいは、本そのものが日付を書き換えたのか。
Tさんは古書店の人間として、紙と墨については詳しい。三十年前の墨が、あんなに鮮やかなはずがない。かといって、誰かが忍び込んで書き足したなんてことも考えられない。棚の奥の、売り物でもない本を。
その晩、Tさんは眠れなかったそうだ。店の奥から、あの甘い匂いがした。線香のような、でも線香ではない匂い。三十年前と同じ匂いが。
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残された疑問と、消えた匂い
Mさんがこの話を聞いたのは、Tさんの店で酒を飲んでいた時だった。Tさんは普段、こういう話をする人ではないらしい。でもその日はぽつぽつと話し始めて、気づいたら全部話していたという。
Mさんが「本の中身は結局見なかったんですか」と聞くと、Tさんは首を振った。
「見てない。見る気にもならんかった。見たらあかん気がした。三十年間ずっとそうやったし、最後もそうやった」
女性はその後、一度も店に来ていない。名前も連絡先も聞いていない。老人の名前も、結局分からないまま。
MさんはTさんに「怖かったですか」と聞いた。Tさんの答えはこうだった。
「怖いとは違うかな。ただ、自分がなんかの物語の登場人物やったんやなと思った。三十年かけて、ちゃんと役割を果たしたんやなって。それが嬉しいような、寂しいような」
俺はMさんからこの話を聞いて、一つだけ引っかかっていることがある。
あの匂いだ。三十年前の夕方と、本を渡した日の夜。同じ匂いがした、とTさんは言った。それ以降、匂いはしなくなったそうだ。本がなくなったから消えたのか。それとも、役目が終わったから消えたのか。
あの和綴じ本に何が書かれていたのか。今日の日付と名前以外に、何が記されていたのか。女性はあの本を読んだのか。読んで、どうなったのか。
全部、分からないまま。
Tさんに会って直接聞きたい気持ちはあるけど、Mさんに「やめとけ」と言われた。 「あの人が話してくれただけで十分や。深追いしたらあかん話もある」と。
そうかもしれない。でもこの話を誰にも言わずに抱えておくのも無理だったので、ここに書かせてもらいました。
あの老人が何者だったのか。本が自分で日付を書き換えるなんてことがあり得るのか。知っている人がいたら、教えてほしい。
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出典: 不思議な話 三十年後の日付
もっと深く知りたい人向けの本
この話を聞いて、古書にまつわる不思議な話や、日本の怪異譚に興味を持った方に何冊か紹介しておきます。
『古本屋散策』(小田光雄、論創社)は、古書店という空間そのものが持つ奥深さを描いたエッセイ集。本が人を待っている、という感覚が少し分かるかもしれない。
『耳嚢』(根岸鎮衛、岩波文庫)は江戸時代の随筆で、当時の奉行が市井から集めた不思議な話を書き留めたもの。和綴じ本の時代の空気感を味わえる。
『京都奇談逍遥』(北嶋廣敏、PHP文庫)は京都の街に残る怪異や不思議な伝承を集めた一冊。古書店が多い京都という土地の持つ「何か」を感じたい人に。
『古書の森 逍遥』(出久根達郎、ちくま文庫)は古書業界の内側を知る著者が、本と人の縁を綴った随筆。預かった本が三十年後に届くべき人に届く。そういう縁の話が、この本の中にもある。
本記事は世界各地の伝承・都市伝説・公開報道を編集したものです。個別の事象が超常現象であると主張するものではなく、文化史的な記録としてお読みください。心霊スポットへの無断侵入は法的トラブルの原因になります。立入禁止表示には必ず従ってください。
📚 この記事で紹介した書籍
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古本屋散策
小田光雄 / 論創社
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耳嚢
根岸鎮衛 / 岩波文庫
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京都奇談逍遥
北嶋廣敏 / PHP文庫
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古書の森 逍遥
出久根達郎 / ちくま文庫
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