閉鎖が決まった印刷工場で、二十年壊れたままのラジオが深夜に鳴り出した話
東京北部の古い印刷工場。閉鎖の夜から壊れたラジオが鳴り始め、七十三歳の元活字工は三十年前に死んだ工場長の声を聞く。
工場が死ぬ夜に、あのラジオが鳴った
Tさんは俺のじいちゃんの弟で、今年七十三になる。
もう何年も会ってなかったんだけど、今年の正月に久しぶりに顔を合わせた時、酒の席でぽつりぽつり話してくれた内容がどうにも頭から離れない。Tさん本人は「別に怖い話じゃねぇよ」って言うんだけど、俺はずっと背中がざわざわしてた。会話の内容も、覚えてるものをそのまま書いてるのでかなり乱文かもしれません。許してください。
Tさんは東京の北のほう、線路に挟まれた場所にある古い印刷工場で何十年も働いてた人だ。活版印刷、って言って伝わるかな。鉛の活字を一個一個拾って並べて、インクを塗って紙に押し付ける。パソコンもプリンタもない時代のやり方。Tさんはそれを二十代の頃から五十年近くやってた職人で、最後はその工場にたった一人残されて、閉鎖の立ち会いをすることになったらしい。
その工場が正式に閉まることが決まったのは、Tさんが言うには数年前のこと。周りはもうマンションと駐車場だらけで、線路の振動で建物自体がガタガタだったそうだ。
「まあ、しょうがねぇよな。もう誰も活版なんか頼まねぇし」
Tさんはそう言って湯呑みの焼酎をすすった。でもその目は笑ってなかった。
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Tさんと工場の五十年
少し補足しておく。Tさんが入ったのは二十歳そこそこの頃で、当時はまだ工場に十人以上の職人がいたらしい。工場長はYさんという人で、Tさんより十五歳くらい上。戦後すぐに印刷の世界に入った叩き上げで、Tさんにとっては師匠みたいな存在だったそうだ。
「Yさんはな、怖い人だったよ。活字の並べ方が一ミリずれただけで怒鳴る。でも夜勤の時だけは妙に優しくてな。ラジオつけて、深夜放送聴きながら二人で刷ってた」
その夜勤用のラジオってのが、工場の二階にある小さな休憩室に置いてあった古いやつで、Yさんが自分で持ち込んだものだったという。木の箱みたいな筐体の、ダイヤル式のAMラジオ。Yさんが亡くなったのはもう三十年以上前のことで、脳の血管が切れて工場で倒れ、そのまま帰らぬ人になった。
ラジオはその後も休憩室の棚に置かれたままだったけど、Yさんが亡くなってすぐに壊れた。誰が触っても音が出ない。電源を入れてもうんともすんとも言わない。Tさんは何度か直そうとしたらしいが、中の部品が焼けてるとかで、結局そのまま二十年以上放置されていたそうだ。
「捨てようって話も出たけどな。なんとなく、捨てられなかった」
職人が一人減り、二人減り、取引先も減り、最後にはTさん一人だけが残った。閉鎖までの数ヶ月間、Tさんは夜勤で一人、機械の整理や在庫の処分をしていた。線路を電車が通るたびに窓がびりびり震える。インクと鉛と機械油の匂いが染みついた建物の中で、七十を過ぎた老人が一人で片付けをしている。その光景を想像するだけで、俺は胸がつまった。
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壊れたラジオが鳴った夜
閉鎖の正式な日取りが決まった週の、最初の夜勤だったとTさんは言う。
夜の十一時を過ぎた頃、二階の休憩室でお茶を飲んでいたら、棚の上から小さな音が聞こえた。最初はネズミかと思ったらしい。古い建物だからネズミはしょっちゅう出る。でも違った。
ザー、という砂嵐のような音。それからかすかに、人の声のようなものが混じった。
Tさんが棚を見ると、Yさんのラジオだった。
「いや、俺も最初は信じなかったよ。二十年だぞ。二十年壊れっぱなしのラジオだぞ。電源なんか入れてねぇし、そもそもコンセントに繋がってもいねぇ」
コンセントに繋がっていない。ここ大事なんで繰り返すけど、Tさんは「コードは棚の裏に丸めて押し込んであった。壁のコンセントには刺さってなかった」と断言してた。
それなのにラジオは鳴っていた。砂嵐の音と、かすかな声。Tさんはしばらく固まっていたが、怖いというよりも不思議だったと言う。恐怖よりも先に「なんだこれ」という感覚が来たらしい。
音は五分くらいで止まった。Tさんはラジオを手に取って裏蓋を開けてみたが、中は二十年前に見た時と同じで、基盤の一部が黒く焦げていた。乾電池を入れる場所には何も入っていない。
「その日はそれで終わり。気味が悪いっちゃ悪いけど、まあ古い機械だし、何かの拍子で鳴ることもあるのかなと」
ところが翌日の夜勤でも、同じ時間帯にラジオが鳴った。今度は砂嵐の中に、もう少しはっきりした声が混じっていた。
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三十年前に死んだ工場長の声
三日目の夜。Tさんはわざと休憩室に残って、ラジオの前に座って待っていた。
十一時を少し過ぎた頃、また鳴り始めた。砂嵐。そして声。
Tさんは最初、何を言っているか聞き取れなかったという。でもその声の調子に、妙な引っかかりを覚えた。低くて、少しかすれていて、語尾がぶっきらぼうに切れる喋り方。
「……T、お前……まだ……やってんのか」
Tさんの手が震えた。湯呑みを持っていた手から力が抜けて、お茶がこぼれた。
三十年前に死んだYさんの声だった。
「間違いねぇよ。あの喋り方は。俺が二十年一緒に夜勤やった人間の声だ。他の誰でもねぇ」
Tさんは正月の席で、そこだけ声を落として言った。酔ってはいたけど、目は完全にしらふだった。
声は途切れ途切れで、全部は聞き取れなかったそうだ。でもTさんが覚えている限りでは、こんな内容だったという。
「……版、ちゃんと……洗ったか」 「……インク……乾かすなよ」 「……最後まで……ちゃんと刷れ」
全部、仕事の指示だった。三十年前と同じように、夜勤の相棒に語りかけるように。
Tさんはラジオに向かって「はい」と答えたそうだ。声はそれきり止まった。部屋には線路を通過する終電の振動だけが残って、鉛とインクの匂いがやけに濃く感じられたと言っていた。
翌日以降もラジオは夜になると鳴ったが、声が聞こえたのはその夜だけだったらしい。残りの日は砂嵐だけで、何も聞き取れなかった。
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最後の朝、机の上に置かれていたもの
工場の最終日。片付けも終わり、Tさんは朝方に一階の警備室で仮眠を取っていた。
目が覚めたのは朝の六時頃。窓から薄い光が差し込んでいて、線路の向こうから始発電車の音が聞こえた。体を起こしたTさんは、警備室の机の上に一枚の紙が置かれていることに気づいた。
昨夜、寝る前にはなかったものだ。
それは刷りものだった。活版印刷で刷られた、一枚の紙。
Tさんは活版の職人だから、見ればすぐわかる。活字の圧痕、インクの乗り方、紙への食い込み。間違いなく活版で刷られたものだった。しかも使われている活字の書体と組み方に、Tさんは見覚えがあった。
「Yさんの組み方だ。あの人は句読点の後ろに必ず半角分の余白を入れる癖があった。誰に言われてもやめなかった。それがそのまんま出てた」
紙に刷られていた文字はたった一行。
「お疲れさん」
Tさんはその紙を見て、しばらく動けなかったそうだ。それから机に向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
誰もいない工場で、七十三歳の老人が一人、机に頭を下げている。始発電車が通過して窓が震えた。
俺がこの話を聞いた時、正直に言うと泣きそうになった。怖いとかそういうんじゃなくて、なんだろう、胸の奥がぎゅっとなる感じ。Tさんは「別に怖い話じゃねぇだろ」と笑ってたけど、俺にはとてもそうは思えなかった。
その紙は今もTさんが持っている。見せてくれと頼んだら「やだよ」と断られた。
あの声は何だったのか
正月の席ではそれ以上深く聞けなかったんだけど、後日電話でTさんにいくつか確認した。
まず、ラジオは工場の閉鎖後にTさんが持ち帰ったが、自宅では一度も鳴っていないそうだ。あの紙については、Tさんの奥さんも見ていて、「活版で刷った紙には間違いない」と言っているとのこと。ただ、工場の印刷機はすでに電源を落としていて、インクも片付けた後だった。物理的に刷れる状態ではなかったはずだとTさんは言う。
理屈で考えれば説明がつかない。コンセントに繋がっていないラジオが鳴る。電源の入っていない印刷機から刷りものが出てくる。死んだ人間の声が聞こえる。
でもTさんは怖がっていなかった。むしろどこか嬉しそうだった。
「Yさんはな、最後まで面倒見のいい人だったんだよ。俺が一人で残されてるの、心配してくれたんだろ」
Tさんはそう言って、また焼酎をすすった。
俺には霊感はないし、こういう話を信じるタイプでもない。でもTさんが嘘を言う人間じゃないことは知っている。五十年間、毎日同じ工場に通って活字を拾い続けた人が、最後の夜に聞いた声。それが幻聴だったとしても、あの刷りものが誰かの悪戯だったとしても、Tさんにとっては本物だったんだと思う。
あの一行、「お疲れさん」が、五十年の仕事に対する最後の言葉だった。
長文失礼しました。読んでくれた人、ありがとう。 アレが何だったのか、印刷関係の人とか、似たような経験がある人がいたら教えてほしい。
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もっと深く知りたい人向けの本
この話を聞いてから、俺も実話怪談系の本をいくつか読んでみた。工場とか職場の怪談って意外と多い。以下、読んで面白かったものを挙げておく。
『新耳袋 第一夜』(木原浩勝・中山市朗、角川文庫)。実話怪談の金字塔。百話怪談の形式で、一話一話が短いのに後を引く。職場や日常で起きた話が多くて、今回のTさんの話と通じるものがある。
『拝み屋怪談 怖い話』(郷内心瞳、角川ホラー文庫)。拝み屋を営む著者のもとに持ち込まれる実話怪談集。故人からのメッセージ系の話がいくつか収録されていて、怖いだけじゃなく切ない話も多い。
『実話怪談 出没地帯』(松村進吉、竹書房文庫)。竹書房の実話怪談シリーズの一冊。工場、倉庫、夜勤といった労働現場の怪談が印象的。今回の話を読んで気になった人にはぜひ。
本記事は世界各地の伝承・都市伝説・公開報道を編集したものです。個別の事象が超常現象であると主張するものではなく、文化史的な記録としてお読みください。心霊スポットへの無断侵入は法的トラブルの原因になります。立入禁止表示には必ず従ってください。
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新耳袋 第一夜
木原浩勝・中山市朗 / 角川文庫
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松村進吉 / 竹書房文庫
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