世界怪奇録
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2026-06-20その他

昭和四十九年、奥羽の山で「北の尾根を見るな」と言われた夜の話

国有林の境界調査中に杣人から告げられた禁忌。額に縦目を持つ「片目様」に魅入られた者は二度と戻らないという。

昭和四十九年、奥羽の山で「北の尾根を見るな」と言われた夜の話
Photo by Hat Trick on Unsplash

無線から聞こえるはずのない声

今から五十年以上前の話になる。

当時、俺はまだ二十代の小僧で、某県の営林署に見習いとして入ったばかりだった。昭和四十九年の晩秋。奥羽山脈のブナ林に入って、国有林と民有林の境界を測量する仕事をしていた時のこと。

こういう話をどこかに残しておきたいと、ずっと思っていた。歳も取って、あの時のことを知ってる人間がほとんど居なくなってしまった。俺がくたばる前に、誰かの目に触れる場所に書いておこうと思って、今さらこんなところに書き込んでいる。

文章なんてまともに書いたことがない人間なので、読みにくかったら勘弁してほしい。順を追って書く。

当時の測量班は三人一組が基本で、俺の班は班長のTさん(四十代後半、地元の人間)、先輩のNさん(三十代、隣町から来ていた)、そして見習いの俺。Tさんは山の中で育った人で、杣人(そまびと)の家系だった。杣人ってのは、山で木を伐る職人のことで、Tさんの親父さんも爺さんも、一生をブナ山の中で過ごしたような人たちだったらしい。

測量は何日もかかる仕事で、山中の小屋に泊まり込んで作業する。十月も終わりに近い頃、俺たちは標高八百メートルあたりの作業小屋に入った。小屋といっても板張りの壁にトタン屋根を被せただけの、隙間だらけの建物だ。夜になると外の風がそのまま入ってきて、寝袋に潜り込んでも背中から冷えが這い上がってくる。

入山して二日目の夕方だった。Tさんが地図を広げながら、急に声のトーンを落として言った。

dense beech forest mountain autumn mist Photo by Olly Dow on Unsplash

「北のあの尾根を見るな」

Tさん「明日から北側の境界に入るが、ひとつ約束してくれ」

俺とNさんは顔を見合わせた。Tさんは普段、冗談も言うし笑いもする人だったけど、その時の表情は別人みたいに硬かった。

Tさん「北に一本、ブナが特に密集してる尾根がある。あそこには絶対に目をやるな。作業中、気になっても振り向くな」

Nさんは何度もこの山に入っている人だったから、何のことか分かったらしい。黙って頷いていた。俺だけが分からなくて、「なんでですか」と聞いた。

Tさんは少し間を置いてから、こう言った。

「あの尾根には片目様がおる」

片目様。額の真ん中に、縦に裂けたような目がひとつだけある。それが尾根のブナの間を、ゆっくり下りてくるのだと。

Tさんの話では、片目様は山の奥に棲む「もの」で、人を呼ぶのだという。目が合った者は、自分の意思とは関係なく山の奥へ歩き出してしまう。足が勝手に動く。声を出そうとしても出ない。そうやって連れ去られた人間は、二度と里に戻ってこない。

「親父が若い頃、同じ班にいた男がひとり、やられた。朝起きたら寝袋が空になっていて、裸足のまま北の尾根に向かって足跡が続いていた。途中で足跡が消えた。雪の上だったから、消えるはずがないんだが、ぷつっと途切れていた」

Tさんはそう言って、煙草に火をつけた。指先が微かに震えていたのを、俺は見た。

それから、Tさんは俺たちに「備え」を教えてくれた。煤硝子というのは、ランプの煤で黒くした硝子のことで、これを小屋の北側の窓にかざしておく。それと、塩をひと掴み、小屋の入り口と四隅に撒く。昔から杣人の間ではそうやって身を守ってきたのだという。

「見なければ来ない。来ても、硝子と塩があれば入れない。だから怖がらなくていい。ただ、絶対に見るな」

old mountain cabin wooden wall night Photo by Mario La Pergola on Unsplash

あの夜、小屋で起きたこと

三日目の夜だった。

作業は順調に進んでいて、北側の境界もあと一日で片付く見通しだった。Tさんの言いつけ通り、俺は北の尾根には一度も目をやらなかった。作業中、何度か背中がざわっとする感覚はあったけど、振り向かなかった。

夜の九時頃、Tさんが先に寝て、Nさんと俺で焚き火の番をしていた。外は風もなく、異様に静かだった。山の夜というのは、風がなくても何かしら音がするものだ。木の枝が擦れる音、獣が藪を踏む音、沢の水音。それが、何もなかった。

しいんとしている、というのとも違う。音が「吸い取られている」ような感覚。耳の奥がツンと痛くなるような静寂。

Nさんが小声で言った。

N「来てるな」

俺は何も言えなかった。ただ、体の芯が冷えていくのが分かった。外の気温のせいじゃない。内側から、骨の髄から冷えていく感じ。

その時、小屋の北側の壁の向こうから、足音が聞こえた。

ざっ。ざっ。ざっ。

落ち葉を踏む音。等間隔。人間の歩幅。でも、なんというか、重心がおかしい。片足だけが重いような、左右で音の質が違う足音。

Nさんが俺の腕を掴んだ。爪が食い込むくらい強く。

N「目を閉じろ。何が聞こえても開けるな」

足音は小屋の周りを回り始めた。北側から東、東から南、南から西。一周して、また北に戻る。それを三回繰り返した。

三周目の途中で、足音が止まった。

小屋の入り口の前。塩を撒いた場所。

しばらく何も起きなかった。

それから、無線機が鳴った。

俺たちが持っていたのは業務用の携帯無線機で、営林署との連絡用だった。夜中のこの時間に署から連絡が来ることはない。そもそもこの地点は電波状態が悪くて、日中でもまともに繋がらないことが多かった。

ザー、という砂嵐みたいなノイズの中から、声が聞こえた。

女の声だった。

「……おいで」

一瞬だけ。はっきりと聞こえた。

俺は目を閉じたまま、体が凍りついていた。

その声に、聞き覚えがあった。

俺の姉の声だった。三年前に病気で亡くなった、姉の声。

📺 関連映像: 山の怪談 杣人 一つ目 奥羽 心霊体験 — YouTube で検索

dark forest path night fallen leaves Photo by Alessandro Chitarrini on Unsplash

翌朝、Tさんが語ったこと

目を開けたのは、Tさんに肩を揺すられた時だった。朝だった。いつの間にか眠っていたらしい。

Nさんは起きていた。一睡もしていないと言った。顔色が土みたいに灰色で、目の下に濃い隈ができていた。

俺はTさんに、昨夜のことを全部話した。足音のこと、無線のこと、姉の声のこと。

Tさんは黙って聞いていた。それから、静かにこう言った。

Tさん「それが片目様のやり方だ。死んだ身内の声で呼ぶ。一番心を許している人間の声を使う。目を開けなくてよかった」

目を開けていたらどうなっていたのか、俺は聞かなかった。聞けなかった。

Tさんは続けた。

「片目様ってのは、この辺りの山にしかいない。他の山の人間に言っても通じない。じいさんの代から、この山に入る杣人だけが知っている。額に縦の目が一つ。体は人間みたいな形をしているが、大きさが合わない。遠くから見ると普通の人間に見えるのに、近づくと木と同じくらいの背丈がある。遠近感が狂う。それが片目様を見た者が最初に感じる異変だ」

ブナの尾根を下りてくる、というのは、夜になると北の尾根の上から、ゆっくりと下りてくるからだそうだ。毎晩ではない。秋の終わり、木の葉が全部落ちた頃に現れやすい。葉がないから、尾根の上の輪郭がよく見える。だから余計に「見てしまう」危険が高い。

俺たちはその日のうちに残りの測量を終わらせて、山を下りた。最後まで俺は北の尾根を見なかった。下山する時、背中にずっと視線を感じていた。首の後ろが、焼けるように熱かった。

abandoned mountain trail autumn bare trees fog Photo by Yohan Marion on Unsplash

あれから五十年経った今も

あの仕事の後、俺は営林署に数年勤めてから別の仕事に移った。Tさんは十年ほど前に亡くなった。Nさんとは年賀状のやり取りだけが続いている。

一度だけ、Nさんに電話であの夜のことを聞いたことがある。

俺「あの時、Nさんも何か聞こえてたんですか。無線の声」

Nさんは少し黙ってから、こう言った。

N「俺にはお袋の声が聞こえた。『N、こっちにおいで』って。お袋はあの時まだ生きてたのに」

Nさんの母親は、その翌年の春に急死したそうだ。

あれが何だったのか。片目様というのが本当に存在するのか。山の神の一種なのか、それとも全く別の何かなのか。

民俗学の本をいくつか読んでみたことがある。一つ目の妖怪は日本各地にいる。柳田國男が書いた「一つ目小僧」の話、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)のような鍛冶の神との関連。山の神が一つ目であるという信仰は東北に限らず、各地に点在している。

ただ、「額に縦の目」というのは少し違う。横に開いた一つ目ではなく、額の中央に縦に裂けた目。俺が読んだ限り、この特徴に合致する伝承は見つからなかった。Tさんの家系だけが伝えてきた、極めてローカルな存在なのかもしれない。あるいは、もっと古い信仰の断片が、あの山にだけ残っているのか。

もうひとつ気になっているのは、死者の声で呼ぶという手口だ。東北の山には「呼ばり山」とか「呼ぶ声」の伝承がある。山中で名前を呼ばれても返事をするな、という禁忌は広く知られている。けれど、無線機を介して声が届くというのは、俺の経験以外で聞いたことがない。あの時代の無線機は、周波数を合わせなければ受信できない仕組みだった。署の周波数以外の音声が入り込む余地は、技術的にはないはずだ。

Nさんにも俺にも、それぞれ別の声が聞こえていた。同じ無線機から。同時に。

理屈では説明がつかない。でも、あの声は間違いなく姉だった。声の質だけじゃない。「おいで」という言い方。姉が生きていた頃、小さい俺を呼ぶ時にいつもそう言っていた。あの抑揚、あの間合い。他の誰にも真似できない。

misty mountain ridge silhouette dusk japan Photo by Vicky Ng on Unsplash

何が分かっていて、何が分かっていないか

分かっていること。昭和四十九年の晩秋、奥羽山脈のブナ林で、俺とNさんは確かに何かを体験した。Tさんはそれを「片目様」と呼んだ。煤硝子と塩で身を守る方法は、少なくとも杣人の間で何世代にもわたって伝えられてきた。

分かっていないこと。片目様が何者なのか。なぜ死者の声を使えるのか。Nさんの母親の死と関係があるのか。あの尾根に今も現れるのか。

あの山には、もう国有林の作業で人が入ることもほとんどないと聞いている。ブナの原生林は保護区域に指定されて、一般の入山も制限されているらしい。片目様が今もあの尾根を下りているのかどうか、確かめる術はない。

確かめたいとも思わない。

長文を最後まで読んでくれた人、ありがとう。もしこの話に心当たりがある人、東北の山で似たような体験をした人がいたら、教えてほしい。俺はもう山に入る体力はないけど、あの夜のことだけは、死ぬまで忘れないと思う。

出典: ブナの尾根を下りる片目様

もっと深く知りたい人向けの本

この話を読んで山の怪異に興味を持った人には、以下の本をすすめたい。

『山怪 山人が語る不思議な話』(田中康弘、山と溪谷社)。現代の猟師や林業従事者から直接聞き取った山の怪談集。片目様のような「山に棲むもの」の話が数多く収録されている。

『遠野物語』(柳田國男、角川ソフィア文庫)。言わずと知れた日本民俗学の原点。一つ目の妖怪や山の神の記述があり、片目様の背景を考える上で避けて通れない一冊。

『日本の民俗信仰』(宮田登、講談社学術文庫)。山の神、田の神、一つ目信仰など、日本の民間信仰を体系的にまとめた本。片目様がどのような信仰体系に位置づけられるのか、手がかりになる。

『山の霊異記 赤いヤッケの男』(安曇潤平、角川文庫)。登山者が実際に体験した怪異をまとめたシリーズの一冊。山で「呼ばれる」体験の類例が豊富に載っている。


本記事は世界各地の伝承・都市伝説・公開報道を編集したものです。個別の事象が超常現象であると主張するものではなく、文化史的な記録としてお読みください。心霊スポットへの無断侵入は法的トラブルの原因になります。立入禁止表示には必ず従ってください。

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