取り壊し前の標本室で「番号のない瓶」を開けようとした夜の話
旧校舎の標本室に残された台帳にも載らない瓶。その底に沈む白い影は、夜ごとに硝子の内側へ近づいてきた。
五十を過ぎてから、大学の標本室に通うことになった
自分は霊感とかまったくない人間です。
オカルトも怪談も、まとめサイトでたまに読む程度。自分から書き込むなんて一生ないと思ってました。でも去年の秋口に経験したことが、半年以上経った今もどうしても頭から離れない。誰かに聞いてもらいたくて、ここに書きます。
先に断っておくと、俺は五十代の男です。仕事は、ある地方の私立大学で事務職員をやっています。総務課の施設管理担当。簡単に言えば建物の修繕だとか備品の管理だとか、そういう地味な裏方。もう二十年以上やってます。
去年、うちの大学で旧校舎の取り壊しが決まりました。昭和三十年代に建てられた鉄筋コンクリートの三階建て。老朽化がひどくて耐震補強も現実的じゃないということで、ようやく予算がついた。
取り壊しの前に、中に残っている備品や資料を全部整理しなきゃいけない。教室の机や椅子なんかはとっくに運び出してあったんですが、問題は三階の端にあった標本室だった。
生物学科が使っていた部屋で、液浸標本がずらっと棚に並んでいた。ホルマリン漬けってやつです。魚とか両生類とか、瓶に入ったまま何十年も放置されていたもの。生物学科自体がもう十五年前に統廃合で消えていて、標本の引き取り手もなかなか決まらなかった。
俺がその整理を任されたのは、単純に他に人がいなかったから。若い職員は誰もやりたがらないし、教員は「事務方の仕事でしょ」の一点張り。仕方ない。台帳と照合して番号を確認し、処分するもの・移管するものを仕分ける。それだけの作業のはずだった。
長文になります。文才もないので読みにくいかもしれません。すみません。
Photo by Ross Sneddon on Unsplash
台帳に載っていない瓶
標本室に初めて入ったのは九月の半ば、まだ残暑が厳しい頃だった。
旧校舎はエアコンなんかとっくに撤去されていて、窓を開けても生ぬるい風が入ってくるだけ。廊下の蛍光灯は三本に一本しか点かない。標本室のドアを開けた瞬間、ホルマリンとも違う、甘いような、でも鉄っぽいような匂いが鼻についた。二十年近く誰も換気していなかった部屋の空気だ。
棚は壁際に四列。瓶の数は全部で百二十ほど。それぞれの瓶には白いラベルが貼ってあって、三桁の番号と種名が手書きで記されている。台帳は事務室の金庫に残っていた昭和四十年代のもので、万年筆の細かい字がびっしり並んでいた。
最初の二日間は順調だった。番号を照合して、状態を記録して、写真を撮る。瓶の中身は大半が褪色していて、元が何だったのか素人の俺にはわからないものも多かったけど、台帳の記載と番号が一致していればそれでいい。
三日目の夕方だった。
奥の棚の一番下、床に近い位置に、一本だけ妙な瓶があった。
他の瓶と同じサイズ、同じ形。でもラベルが貼られていない。番号もない。瓶の蓋には封蝋のようなものがべったりとついていて、他のどの瓶よりも厳重に閉じられていた。
台帳を最初から最後まで確認した。該当する記録はなかった。欄外の走り書きにもない。追加台帳のようなものも見当たらない。
「これ、台帳にないんですけど」
翌日、上司のK課長に報告した。
K課長「ああ、そういうのもあるだろうね。昔の先生が個人的に持ち込んだやつとか。まあ中身確認して、他と同じように処分リストに入れといて」
そう言われて終わりだった。
ただ、中身を確認しようにも蓋が開かない。封蝋がガチガチに固まっていて、手では無理だった。工具で無理に開けるのも標本を傷める可能性があるし、とりあえず後回しにした。
その日の帰り際、何となく瓶を持ち上げて底のほうを覗き込んだ。
液は他の瓶と同じように薄い黄色だった。でも底のほうが少し白っぽく濁っていて、何かが沈んでいるのが見えた。
膝を抱えているように見えた。
小さな、白い、膝を抱えた何か。
最初は標本が崩れて沈んだんだろうと思った。魚の骨とか、そういうものが折り重なってそう見えるだけだと。
でも帰りの車の中で、ずっとあの形が頭に残っていた。
Photo by Siborey Sean on Unsplash
夜ごとの観察
ここからが、俺にもよくわからない話になります。
翌日から俺は、なぜかあの瓶が気になって仕方がなくなった。他の標本の整理を進めながらも、一日に何度もあの瓶のところに行って覗き込んでいた。
白い影は、やっぱり膝を抱えた姿勢に見えた。大きさは拳二つ分くらい。瓶の底に静かに沈んでいる。
一週間ほど経った頃、俺はノートを持ち込んで、あの影をスケッチし始めた。美術の才能なんかないけど、形を記録しておきたいと思った。何でそう思ったのか、今考えても自分でもよくわからない。
最初のスケッチは九月二十日。瓶の底に丸まった、輪郭のぼんやりした塊。
九月二十三日。塊の上部に、頭のような丸みが見えるようになった。
九月二十七日。膝を抱えた腕らしきものの輪郭が、前より少しはっきりしていた。
俺は毎日同じ角度から見ている。照明も同じ位置の蛍光灯。液の濁り具合が日によって変わるとか、そういう合理的な説明はつくかもしれない。温度変化で対流が起きて、沈殿物の形が変わるとか。
でも、変わり方に方向性があった。
日を追うごとに、影は瓶の底から少しずつ上に移動しているように見えた。
十月に入ると、残業で標本室にいる時間が遅くなった。旧校舎は夜になると本当に静かで、自分の足音と蛍光灯のジーッという音しかしない。たまに配管が鳴る。コン、と一回だけ。それだけ。
十月八日の夜。いつものようにスケッチをしていた。
白い影が、瓶の中央あたりまで浮き上がっていた。
一週間前は底にいたのに。
膝を抱えた姿勢は変わらない。でも明らかに位置が変わっている。そして、前よりも硝子の壁に近い位置にいた。
スケッチしている俺の手が、少し震えていたのを覚えている。
その夜、家に帰ってノートを見返した。九月二十日から十月八日まで、十数枚のスケッチ。順番に並べると、白い影が瓶の底から中央へ、そして硝子の内壁へ向かって、少しずつ、少しずつ移動しているのが一目でわかった。
こっちに来ている。
そう思った瞬間、背中から首の後ろにかけて、冷たいものが走った。十月の夜だったけど、あれは気温のせいじゃない。
Photo by Brooke Balentine on Unsplash
📺 関連映像: 大学 標本室 怪談 ホルマリン — YouTube で検索
同僚のTさんに相談した夜
翌日、同じ総務課のTさんに話をした。Tさんは俺より五つ年上で、この大学に三十年以上いる人。旧校舎のことも、生物学科があった頃のことも知っているはずだった。
俺「Tさん、三階の標本室に番号のない瓶があるの知ってます?」
Tさんはコーヒーを飲む手を止めて、少し考えてから言った。
T「ああ、あるね。昔からあるよ。触らんほうがいいよ」
俺「え、知ってたんですか」
T「知ってるっていうか。俺が若い頃、当時の生物学科の教授がね、あれだけは動かすなって言ってたの。理由は聞いてない。聞ける雰囲気じゃなかった」
俺「台帳にも載ってないんですよ」
T「載せてないんだろうね。載せられないのかもしれないけど」
Tさんはそれ以上は話したがらなかった。ただ帰り際に、小声でこう言った。
T「あの瓶、覗き込みすぎるなよ。昔、助手の人が一人、おかしくなったから」
詳しく聞こうとしたけど、Tさんは「もう帰るわ」と言って先に帰ってしまった。
その夜、俺は標本室には行かなかった。行かなかったけど、家の布団の中で、あの瓶のことをずっと考えていた。
おかしくなった助手というのは誰なのか。何がどう「おかしく」なったのか。
そして、あの白い影は今夜も動いているのか。
Photo by Adil Sattarov on Unsplash
最後にスケッチをした日のこと
十月十五日。これが俺が標本室に入った最後の日になった。
その日は朝から曇っていて、旧校舎の三階は昼間でも薄暗かった。標本室に入ると、いつものホルマリンとは違う匂いがした。線香、というのとも少し違う。何かが焦げたような、でもどこか甘い匂い。換気扇は動いていないから、どこから来ているのかわからなかった。
棚の前に立って、番号のない瓶を見た。
白い影は、硝子の内壁にほとんど張り付いていた。
俺が立っている側の壁に。
膝を抱えた姿勢は変わっていない。でも、前は丸まっていた頭の部分が、少しだけ持ち上がっているように見えた。うつむいていたものが、顔を上げかけている。そんな姿勢。
スケッチしようとノートを開いた。鉛筆を握った。
瓶の中の白い影が、揺れた。
液の対流とか、建物の振動とか、そういうものかもしれない。でも俺にはそう見えた。膝を抱えたまま、ゆっくりと首を傾げたように。
こっちを見ている。
硝子一枚を挟んで、あれがこっちを見ている。
鉛筆を落とした。拾わなかった。ノートを閉じて、瓶から三歩下がった。
あの甘い焦げた匂いが、さっきより強くなっていた。
俺は標本室のドアを閉めて、鍵をかけて、階段を降りた。三階から一階まで、走ったかもしれない。覚えていない。事務室に戻って、K課長に言った。
俺「あの瓶、俺には処理できません。専門の業者に頼んでください」
理由は言わなかった。言えなかった。K課長は怪訝な顔をしていたけど、「わかった、他の人に頼む」とだけ言った。
Photo by Julian Zwengel on Unsplash
あの瓶がどうなったのか、俺は知らない
それから半年以上が経った。
旧校舎の取り壊しは今年の春に始まって、今はもう更地になっている。標本の処分がどう進んだのか、番号のない瓶がどう扱われたのか、俺は確認していない。確認する気になれなかった。
Tさんに一度だけ聞いた。
俺「あの瓶、結局どうなったんですかね」
T「知らん。知りたくもない」
それきりだった。
一つだけ、後日わかったことがある。
生物学科が統廃合される前の最後の教授。N先生という人だったらしい。Tさんが言っていた「あれだけは動かすな」と言った人物。このN先生は退職後、数年で亡くなっている。死因は知らない。
そして「おかしくなった助手」というのは、N先生の研究室にいた大学院生で、ある日突然大学に来なくなり、そのまま退学したという話だった。Tさんも人づてに聞いた程度で、詳しいことは知らないらしい。
その院生が標本室で何を見たのか。N先生があの瓶をどこから持ち込んだのか。なぜ台帳に載せなかったのか。封蝋で厳重に閉じたのは誰なのか。
何もわかっていない。
俺のスケッチノートは、まだ家の引き出しの奥にある。見返す気にはなれない。でも捨てられない。捨てたら何かが変わってしまうような、そんな気がして。
あの瓶の中にいたものが何だったのか、わかる人がいたら教えてほしい。ホントに。
今でも、ふとした瞬間に思い出す。硝子の内壁に張り付いて、ゆっくり顔を上げかけていた、白い影のことを。
あれは標本だったのか。
それとも、標本になりたかった何かだったのか。
あるいは。瓶の外に出たかったのか。
出典: 標本室の番号のない瓶
もっと深く知りたい人向け
液浸標本や博物学の文脈でゾクッとする読書体験を求めるなら、以下の本をおすすめします。
『標本の本 よみがえる博物の記憶』(湯浅浩史/東海大学出版会)は、博物館の裏側にある標本という存在そのものに光を当てた一冊。あの瓶を見た後に読むと、また違った怖さがある。
怪談実話系なら『怪談実話 無惨百物語 ゆるさない』(黒木あるじ/竹書房文庫)。大学や研究施設にまつわる話もいくつか収録されていて、学術の場に潜む薄暗さが味わえます。
もう一冊、『実話怪談 出没地帯』(松村進吉/竹書房文庫)も、建物の取り壊しや解体に絡んだ怪異の話が複数あって、今回の話と空気が近いかもしれない。
本記事は世界各地の伝承・都市伝説・公開報道を編集したものです。個別の事象が超常現象であると主張するものではなく、文化史的な記録としてお読みください。心霊スポットへの無断侵入は法的トラブルの原因になります。立入禁止表示には必ず従ってください。
📚 この記事で紹介した書籍
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標本の本 よみがえる博物の記憶
湯浅浩史 / 東海大学出版会
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怪談実話 無惨百物語 ゆるさない
黒木あるじ / 竹書房文庫
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実話怪談 出没地帯
松村進吉 / 竹書房文庫
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