世界怪奇録
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廃業した活版印刷所から届いた一枚の挨拶状──差出人の住所欄には、何も刷られていなかった

閉業間際の活版印刷所を取材したライターが体験した、夜ごと組まれていく活字と一つ余分な湯呑みの話。

廃業した活版印刷所から届いた一枚の挨拶状──差出人の住所欄には、何も刷られていなかった
Photo by Finn on Unsplash

あの印刷所には、誰かがもう一人いた

去年の冬、ある活版印刷の老舗がひっそりと廃業した。

俺はフリーのライターをやっている。仮にT印刷所としておく。T印刷所は都内の下町にあって、創業は戦前まで遡る。三代目のご主人、仮にKさんとする。Kさんが高齢を理由に店を畳むことになり、編集部から「最後のひと月を密着取材してくれ」と依頼が来た。活版印刷自体がもう風前の灯火だし、記録としての価値がある。俺は二つ返事で引き受けた。

ここまでは普通の仕事の話。

ただ、このひと月の取材で俺が体験したことを、未だに誰にもうまく説明できないでいる。編集部に出した原稿にも書けなかった。だからここに書く。長くなるかもしれない。文章もまとまりがないかもしれないけど、許してほしい。

先に言っておくと、俺は霊感なんてものは一切ない人間です。お化け屋敷も平気だし、肝試しで怖がったこともない。そういう人間が、それでもどうしても合理的に説明がつかないことに出くわした、という話です。

old letterpress printing workshop dim light Photo by Rooban N on Unsplash

T印刷所の最後のひと月

T印刷所は木造二階建ての古い建物で、一階が工房、二階がKさんの住居になっていた。工房に入ると、まずインクと機械油の混じった匂いがする。甘くて、少し鉄っぽい。活版印刷を知らない人に説明すると、鋳造された金属の活字を一文字ずつ拾って文章を組み、それにインクを塗って紙に押しつける。パソコンもプリンターも使わない、完全に手作業の印刷方法だ。

Kさんは七十代後半で、背中は少し丸まっていたけど、指先は驚くほどしっかりしていた。活字を拾うスピードが尋常じゃない。何千種類もある活字の棚から、目的の一文字を迷いなく掴み取る。俺が「どうしてそんなに早く見つけられるんですか」と聞いたら、Kさんは笑って「六十年やってるからな。手が覚えてる」と言った。

取材は朝九時から夕方六時まで。残りの仕事を片づけながら、合間にKさんの話を聞く。常連さんへの最後の名刺印刷とか、お寺の納経帳とか、そういう小さな仕事がまだ残っていた。Kさんは奥さんを十年前に亡くしていて、一人暮らしだった。子供はいない。

取材三日目くらいから、ちょっと変なことに気づいた。

Kさんは午前中と午後に一回ずつ、お茶を淹れてくれるんだが、湯呑みをいつも三つ出す。俺とKさんで二つのはずなのに、もう一つ。最初はぼんやり「来客用かな」と思っていたんだが、四日目に聞いてみた。

俺「Kさん、湯呑み三つですけど、誰か来るんですか」 Kさん「ん? ああ、癖だよ。昔からだ。気にしないで」

それ以上は聞けなかった。Kさんの表情が一瞬だけ、取材中に見せたことのない種類の顔になったから。懐かしいような、少し申し訳なさそうな。そういう顔。

three tea cups old japanese workshop table Photo by Lizgrin F on Unsplash

夜ごと組まれていく活字

取材が一週間を過ぎた頃、決定的なことが起きた。

その日は午後から雪が降り始めて、取材を少し早めに切り上げた。翌朝、いつも通り九時に工房に行くと、Kさんがじっと作業台の前に立っていた。

Kさん「見てくれ」

作業台の上に、組版台がひとつ置かれていた。活字が整然と並んでいる。俺は活版印刷の素人だけど、一週間も見ていればわかる。これは文章が組まれている状態だ。

俺「昨日の続きですか」 Kさん「いや。俺は昨日、ここには何も置かなかった」

組まれていた文面を、Kさんがゆっくり読み上げてくれた。

「謹啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます このたび左記の住所にて開業いたしましたので ご挨拶申し上げます 何卒ご愛顧のほどお願い申し上げます 敬具」

開業の挨拶状だった。

ただし、本来なら差出人の名前が入るべき場所は空白。住所の欄も空白。日付もない。

Kさんは静かな声でこう言った。

Kさん「これは親父の組み方だ」

Kさんの父親。つまり二代目のご主人は、二十年以上前に亡くなっている。

俺「お父さんの?」 Kさん「活字の並べ方には癖がある。行間の取り方、句読点の位置。これは親父のやり方だ。俺とは違う」

背筋が冷たくなった。工房の温度が急に下がったような気がした。実際には暖房が入っていたはずなのに、俺は自分の息が白くなるのを見たと思う。思う、としか言えない。見間違いかもしれない。

Kさんはその活字を崩さず、そのまま一日置いておいた。俺は写真を撮らせてもらった。翌朝来ると、活字はそのままだった。三日目の朝も。でも四日目の朝に来たら、活字はきれいに片づけられて、活字棚に戻されていた。

Kさん「俺が戻したんじゃないよ」

あの時のKさんの顔を、俺は今でもよく覚えている。怖がってはいなかった。むしろ穏やかだった。古い友人の訪問を受けたような、そんな表情だった。

📺 関連映像: 活版印刷 老舗 廃業 ドキュメンタリー — YouTube で検索

湯呑みの茶は、減っていた

活字の件があってから、俺はあの「三つ目の湯呑み」が気になって仕方なくなった。

次の日から意識して観察した。Kさんがお茶を淹れて、三つの湯呑みを並べる。俺とKさんがそれぞれ自分の分を飲む。三つ目の湯呑みには誰も触れない。

ところが、午後の休憩のときに見ると、三つ目の湯呑みの茶が少し減っている。

最初は蒸発かと思った。冬場の工房は乾燥していたし、暖房もつけている。でも俺の湯呑みとKさんの湯呑みに残った茶の量と比べて、明らかに三つ目だけ減り方が大きい。半分近く減っている日もあった。

ある日、思い切って聞いた。

俺「Kさん。あの湯呑み、誰のですか」 Kさん「…うちの初代だよ。爺さん」

初代。創業者のことだ。

Kさん「親父が生きてた頃からの習慣でな。朝と昼に爺さんの分も淹れる。親父が死んでからは、親父の分もな」

それだけ聞くと、まあ仏壇にお茶を供えるようなものか、と思えなくもない。でもKさんが茶を置くのは仏壇ではない。作業台の端、活字棚のすぐ横だ。

俺「お茶、減ってますよね」 Kさん「うん。昔からだ。飲んでくれてるんだろう」

Kさんの声には、何の不安もなかった。当たり前のことを言うように、静かだった。

工房の奥、活字棚が壁一面に並んでいる一角は、いつも少しだけ空気が違った。温度が低いとか匂いがするとか、そういうはっきりした違いじゃない。もっと曖昧な、誰かがそこに立っているような気配。視界の端で何かが動いたような錯覚。振り向くと何もない。でも何もないことに、なぜか安心できない。そういう場所だった。

old wooden type case letterpress dark shadow Photo by Bret Lama on Unsplash

閉業の日、そして届いた一枚

取材はひと月で終わった。最終日、Kさんは工房の機械を一台ずつ丁寧に拭いて、カバーをかけた。活字棚にも布をかぶせた。最後に工房の電気を消す瞬間、Kさんが小さな声で「ありがとうございました」と言った。俺に向かってではない。工房に向かって言っていた。

それからしばらくして原稿を書き上げ、編集部に納品した。T印刷所のことは、俺の中では「いい取材だったな」という記憶に収まりつつあった。

閉業からおよそ二週間後のことだ。

編集部から連絡が来た。「お前宛てに変な郵便が届いてるぞ」と。

届いていたのは、一枚の葉書だった。活版印刷で刷られている。書体、インクの乗り方、紙の質感。間違いない、T印刷所の仕事だ。

文面はこうだった。

「謹啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます このたび左記の住所にて開業いたしましたので ご挨拶申し上げます 何卒ご愛顧のほどお願い申し上げます 敬具」

あの夜、組まれていた活字と同じ文面だった。

そして、差出人の名前の欄は空白。住所の欄も空白。日付も空白。消印を見ると、T印刷所がある地域の郵便局のものだった。日付はT印刷所が閉業した翌日になっていた。

翌日。Kさんが工房の鍵を閉めた、その翌日だ。

俺はすぐにKさんに電話した。

俺「Kさん、閉業のあとに何か刷りましたか」 Kさん「いや。機械にはカバーかけたろう。お前も見てたじゃないか」 俺「じゃあこの葉書は」 Kさん「…見せてくれるか」

翌週、葉書を持ってKさんのところへ行った。Kさんはしばらく葉書を眺めて、指で活字の凹凸をなぞっていた。活版印刷は活字が紙に食い込むから、裏から触ると文字の凸凹がわかる。

Kさん「これは親父の組み方だ。間違いない」 Kさん「それと、この書体は『築地体』の初号だ。うちに残ってた一番古い活字だよ。爺さんが創業のときに買ったやつだ」

開業挨拶状。住所なし。差出人なし。創業時の活字で組まれている。

Kさんは葉書を俺に返しながら、こう言った。

Kさん「どこかで開業したんだろうな」

誰が。どこで。Kさんはそれ以上何も言わなかった。

abandoned printing press dusty room Photo by Ruth Bourke on Unsplash

何が分かっていて、何が分かっていないか

あの葉書は今も俺の手元にある。

分かっていることを並べる。活字はT印刷所のものだ。組み方は二代目、つまりKさんの父親の癖と一致する。使われた書体は創業時に購入された築地体の初号。消印はT印刷所の最寄り郵便局で、日付は閉業翌日。

分かっていないことのほうが多い。誰が刷ったのか。どうやって刷ったのか。機械にはカバーがかけられ、工房の鍵はKさんが持っていた。なぜ住所が空白なのか。「開業」とはどういう意味なのか。誰が郵便局に持ち込んだのか。

Kさんに最後に会ったのは、葉書を見せに行ったあの日が最後だ。その後、T印刷所の建物は取り壊されて、今は更地になっている。Kさんは地方の施設に移ったと聞いた。

ひとつだけ、俺が個人的に考えていることがある。あの工房には、ずっと「もう一人」がいた。湯呑みの茶を飲み、夜中に活字を組み、Kさんのそばにいた誰かが。Kさんの父親か、祖父か、あるいはもっと別の誰かか。

そしてKさんが店を畳んだとき、その「誰か」も新しい場所へ向かった。だから開業挨拶状を出した。住所がないのは、まだ届いていないからか。それとも、住所という概念がない場所だからか。

KさんはあのWhen、怖がっていなかった。あの穏やかな顔を思い出すたびに、俺はこの話が怖い話なのか、それとも違う種類の話なのか、わからなくなる。

わからないまま、ここに書いた。読んでくれた人、ありがとう。もし活版印刷に詳しい人がいたら、「築地体の初号で、住所欄だけ空白の開業挨拶状」に何か心当たりがあれば、教えてほしい。

出典: 住所のない開業挨拶状

もっと深く知りたい人向け

活版印刷の世界やその文化的背景に興味が出た方、あるいは「職人の工房に残る気配」のような怪談をもっと読みたい方には、以下の本をおすすめしておく。

『活版印刷の世界』(嘉瑞工房、武蔵野美術大学出版局)は、日本の活版印刷の歴史と技術を丁寧に解説した一冊。築地体や秀英体といった活字書体の成り立ちも詳しく、Kさんが語った「築地体の初号」がどういうものか、この本を読めばよくわかる。

怪談としての読み応えを求めるなら、黒木あるじ『怪談実話 無惨百物語 ゆるさない』(竹書房文庫)。職人や職場にまつわる怪談も収録されていて、「仕事場に残る気配」という感覚が好きな人には刺さると思う。

そして投稿型怪談の古典として、木原浩勝・中山市朗『新耳袋 第一夜』(角川文庫)。短い実話怪談が積み重なっていく構成は、今回の話のように「小さな違和感が積もっていく」タイプの恐怖と相性がいい。


本記事は世界各地の伝承・都市伝説・公開報道を編集したものです。個別の事象が超常現象であると主張するものではなく、文化史的な記録としてお読みください。心霊スポットへの無断侵入は法的トラブルの原因になります。立入禁止表示には必ず従ってください。

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